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理学療法士になりました                    ~リハビリ 日々是好日~
リハビリスタッフとして仕事をしながら、日々思うこと、記憶に残ったことを記録していきます。

プロフィール

どら吉

Author:どら吉
年齢   : 39歳
性別   : 男性
略歴   : 大学  ドイツ文学科を専攻
     : その後 金融機関に就職
           システムエンジニア
     : 退職後 専門学校に入学
           理学療法学科を専攻
     : その後 病院・診療所に勤務
     : 現在  診療所にて
           通所リハビリ業務
           訪問リハビリ業務



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風船爆弾

こんばんは。

 本日は、腰部脊柱管狭窄症、86歳女性、Wさんのお話を記録します。
この方のエピソードは以前夫婦のお話で述べたこともあるかと思いますが、本日は
戦時中の学徒動員時のお話をしてくださいましたので、改めて書き記したいと思います。

 Wさんは、終戦時には当時の女学校の5年生でした。当時は、中等部は1-5年まで
あり、17歳だと、ちょうど5年生にあたるというわけです。

 Wさんは、東京都内に住んでいたこともあり、戦火が高まるにつれて、学徒動員として
鉄砲の弾丸を作るためのお手伝いをしたり、また、造幣局にて、満州国の紙幣を精査し、
きちんと印刷できているかどうかをチェックしたり、そして姉妹には、風船爆弾の作成作業に
駆りだされたりと、同級生の女学生とともに、戦中の日本に奉仕せざるを得なかった世代の
ひとです。

 風船爆弾  現代の我々には、正直、ピンときません。直径や高さが10mはあったとの
ことですが、それを聞いてもピンときません。まぁ、気球のようなものかな、という適当なイメージ
をするばかりであります。

 その当時、冬季に限り、シベリアから吹く偏西風に載せて、千葉の九十九里浜や、九州の一部
から、風船爆弾を飛ばし、アメリカ本土へ着地させてそこで爆発させたり、ガスをまいたりするという
ものだとのことです。当時、Wさんの記憶では、3%ほどの風船爆弾が無事に着弾するということ、
そして、意外にもアメリカ国民はこの爆弾を心底恐れている、ということでした。

 この風船爆弾は強い和紙を原料としており、その和紙を こんにゃくのり を用いてしっかりと
貼り付け伸ばしたものとのことでした。こんにゃく粉から作ったのりでのした和紙は、かなりの強度
だったとのことですが、私からすれば、こんにゃく?のり?という感じでした。
調べると、いろいろと出てきて面白いですよ。

 このこんにゃくのりを、平らな木の板で何度もしっかりと体重をかけてのすわけですが、この作業
は当時の女学生にはかなりの重労働であったらしく、Wさんの手指も、左右ともに第2関節・
第3関節の節がかなり太くなってしまい、変形もしていました。
 
 Wさんのお話では、若い中等部の女性の中には、指が変形してしまい、しっかりとものを握ったり
開いたりできなくなるほどの人もいたとのことでした。 若い女性にとってどれほどの重労働だったか、
推し量れます。 当時、日勤・夜勤とがあり、そのどちらにも学徒の女生徒が駆り出されていたようです。

 さて、この風船爆弾は、完成の前に、しっかりと膨らむかのテストを行ったようです。
現在で言う帝国劇場(帝劇)や、東京劇場(東劇)そして、あと1箇所の計3箇所にて、
その風船爆弾を膨らます試験があったようです。 椅子は全部片付けられ、その風船が割れてしまっても
被害が出ないよう、空気を入れて膨らました後は、劇場に鉄板を置いておき、その中に隠れた
とのことでした。 本番には、空気、ではなくて、もっと軽いヘリウムガスなどを入れたらしいです。

 そのテスト場には、当時の首相である東條英機が、ニコニコと営業スマイルをしながら(Wさんの印象)
ごくろうさん、と労をねぎらってくれていたようです。
 また、その風船爆弾の工場においては、皆勤賞の表彰などもあったらしく、Wさんも賞状を持っているとの
ことでした。

 当時、造幣局や風船爆弾の作業場には、飲食するものは多量にあったようで、学徒のWさんも、
上官から 栗まんじゅう を2つほど、毎月もらっていたようです。もったいないと思ったWさんは、
その栗まんじゅうを自宅に持ち帰り、親戚一同と小さく分け、皆で食べたとのことでした。
当時、多くの庶民が節制した生活を送っていたため、かなり喜ばれたとのことでした。

 さて、余談ですが、Wさんは、終戦後、 当時の市ヶ谷にて行われた、国際的な裁判、
東京裁判に、中学5年生でありながら、学校を休んで傍聴しに行ったとのことでした。
どうやらお父さんがチケットを取ってくれ、勉強熱心なWさんに、渡したようです。
なかなかのお父さんだと思います。

 Wさんが印象に残るのは、アメリが軍の女性MP(憲兵)が、Wさんを小さな小部屋に連れて行き、
体中の検査と、髪の毛の検査も丁寧に行ったとのことでした。当時の裁判は、アメリカだけでなく、
フランスやイギリスなど多国籍な裁判官からなる裁判であったとのことで、
ここでの経験はWさんにとってかなり貴重な経験になったとのことでした。

 Wさんは、最後に、このようにお話していました。
現在、新聞やラジオで聞くような風船爆弾の話や、戦時中の話は、どうも生で経験した我々の
感覚や、事実とは異なっていることが多い、何だか都合のよい形に置き換えられていることもある。
これから、私のような語り部がいなくなった後、事実がどのように捻じ曲げられていくのか、
本当に心配だ。私の言っていることが、それが本当のことだ。
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